1950年6月25日朝鮮時間15時、北朝鮮空軍の識別章を付けた2機のYak-9Pが、北朝鮮捜索隊による韓国の首都早期奪取を予見して、アメリカ人の撤収が目まぐるしい速さで行われていたソウル近郊の金浦空港上空に現れた。「ヤク」は、管制塔を射撃し、燃料タンクを破壊し、その後、地上に駐機していた米空軍に所属するС-54軍用輸送機を撃破した。同時に、「ヤク」の編隊は、ソウル空港で韓国空軍機7機を撃破した。1900、「ヤク」は、再び金浦を攻撃し、С-54に止めを刺した。これは、朝鮮戦争における最初の戦闘であり、北朝鮮空軍のデビューだった。
北朝鮮空軍の編成は、上記の出来事よりもはるか以前に始まっていた。第二次世界大戦終結後3ヶ月も経たないうちに、朝鮮人民の偉大なる首領金日成は、既に「新朝鮮空軍の創設」(1945年11月29日)
に関する演説を行っていた。日本人から朝鮮領土に残された航空基地及び航空機修理企業は、主として半島南部に集中しており、アメリカ人、後に韓国の手に渡っていたため、事実上、不毛の地で航空隊、並びに軍全体を創設せざるを得なかった。「新朝鮮」空軍の要員訓練は、ソビエト占領軍の航空部隊が駐屯していた平壌
、新義州、清津における航空クラブの組織から始まった(「偉大なる北の隣国」の経験により)。教官、プログラム及び機体(Po-2、UT-2、Yak-18(恐らく、Yak-9U、La-7、Yak-11も存在しただろう。)は、ソ連のものだった。
重大な問題は、飛行・技術要員の選抜だった。戦時に日本空軍で勤務していた朝鮮人は、「人民の敵」と布告され、彼らを捕まえ、裁くことに決定されていた。インテリゲンチヤ、ブルジョアジー
その他の朝鮮社会の最も素養のある代表者は、ソビエト軍の到着後、恐らく、「「朝鮮式」社会主義の聖なる帝国」が実現することを予見して、大部分がアメリカ占領地に逃亡した。他方、
朝鮮住民の基盤を構成したのは、航空隊について非常に漠然とした理解しか有していなかった知識のない農民だった。素朴な「稲作農夫」は、「北朝鮮臨時人民委員会プログラム」のいくつかの命題を頭に叩き込ませれば、PPShやモシン小銃の射撃を比較的簡単に教えることができたが、飛行士を作り出すことは、かなり複雑な課題だった。
部分的にこの問題は、金日成への奉仕に移ったソビエト軍
(直接及び転義において適した中国系、朝鮮系ソ連人、ブリヤート人等)出身の軍事専門家により解決された。残りは、航空クラブ及び少し後に創設された軍事航空学校に、共産主義者は、最も素養のある若者、先ず第1に学生、更には男子、女子を問わずに勧誘しようとした。朝鮮北部の新空軍の「一番手」となったのは、1947年末に始まった平壌からソビエトの沿海地方(ウラジオストク、ハバロフスク)及び中国(ハルビン)
へのLi-2及びC-47軍用輸送機の定期便だった。飛行は、ソビエト・朝鮮混成の搭乗員が遂行した。これら飛行の主任務は、「兄弟党」と「暫定委員会」、後に北朝鮮政府間の定期連絡の維持だった。
1948年、ソ連軍と米軍が朝鮮半島を離れた。事実上直ちに、「北朝鮮臨時人民委員会」は、朝鮮人民軍の創設について布告し、半年後になって初めて、朝鮮民主主義人民共和国が建国された。このような非伝統的な順序は、1948年末までに平壌がソビエト製兵器を装備した数個師団から成るかなり強力な軍を保有することを可能にした。
勿論、全ての本部には、ソビエト人(時折、中国人)軍事顧問が座っていた。北朝鮮空軍を指揮したのは、ワン・レンとその顧問のペトラチェフ大佐だった。公式には、1950年中盤まで1個混成航空師団がその統制下にあったが、その機数は、ソビエトのものを著しく超えた。アメリカ人の評価によれば、北朝鮮は、70機のYak-3、Yak-7B、Yak-9及びLa-7戦闘機、
並びにIl-10攻撃機×62機を含む132機の戦闘機を装備していた。ソビエト人軍事顧問が提供した正確な機数は、1個航空師団(1個攻撃機航空連隊(Il-10×93機)、1個戦闘機航空連隊(Yak-79×79機)、1個教育航空連隊(教育機及び連絡機×67機)、2個航空技術大隊である。総員2,829人だった。
軍の骨幹は、元ソビエト人航空専門家、並びに1946〜50年にソ連、中国及び直接北朝鮮領土で教育を受けた飛行・技術要員が構成した。
つまり、戦争最初初期のアメリカ人パイロットの報告には、「空気抵抗減少」型の北朝鮮ジェット戦闘機(Yak-17、Yak-23又はYak-15すらも)との空中での会敵に関する言及が存在することから、アメリカ人歴史家は、北朝鮮空軍が
戦争前にジェット機の習得を始めたとの結論を下している。ソビエトの情報源にこの証明はないが、中国人が当時(言い換えれば、MiG-15の教育の際、当時MiG-15UTIはまだなかった。)Yak-17UTIで訓練していたことが知られている。これらの機体は、特に奉天に存在した。それにも拘らず、アメリカ人パイロットには、朝鮮上空で北朝鮮と中国のLa-5、Pe-2、Yak-7、Il-2及び「エアコブラ」ですら見えたのだ!
朝鮮戦争の原因と過程に関する話は、本文の枠外に出るため、これらの出来事は簡単に触れる。何らかの出来事が北朝鮮空軍の形成に影響を与えた場合に限り、この戦争に関心を持つ。当初、戦闘行動は、平壌にとって上手く進行した。戦車縦隊は、ほぼ自由に前進し、「ヤク」と「イル」は、航空支援を保障した。ソウル及び大田地区での「戦闘」に対して、朝鮮人民軍のいくつかの部隊は、
近衛の
称号すら受けた。その中には、4個歩兵及び1個戦車旅団、4個歩兵及び2個高射砲兵連隊、魚雷艇支隊があった。
その外、「大田近衛」の称号は、北朝鮮空軍戦闘機連隊も授与された。今日、この部隊は、北朝鮮空軍の中で唯一の近衛部隊である。
このようにして、初期段階において、成功は北朝鮮側にあった。つまり、米国が戦争に干渉するまで続いた。結果として、1950年8月初めまでに、北の航空隊は
撃破され、国連軍への何らかの重大な抵抗を示すのを止めた。空軍残余は、中国領土に移転した。アメリカ航空隊の絶え間ない攻撃は、朝鮮人民軍地上部隊が夜間戦闘行動に移転することを強制した。しかし、1950年9月15日
の北朝鮮軍後方、仁川地区への国連軍の海上強襲上陸と釜山橋頭堡からのアメリカ人の逆襲同時開始後、朝鮮人民軍は、「一時的な戦略的退却」を開始せざるを得なかった(ロシア語の翻訳では、北へ遁走した。)。結果として、1951年10月末までに、北朝鮮人は領土の90%を失い、その軍は
ほぼ完全に撃破された。
事態を改善したのは、MiG-15を装備したソビエトの防空軍第64戦闘機航空軍団の援護の下、彭徳杯元帥の「中国人民義勇軍」の朝鮮進入だった。中国義勇兵は、アメリカ人とその同盟国を38度線
の向こう側まで退けたが、この線で停止させられた。北朝鮮空軍について言えば、1950〜51年冬、当初Po-2、後にYak-11及びYak-l8が飛んだ文献上で広く描写されている夜間爆撃機連隊のみが活発に行動した。しかし、これが奇妙に思われないように、その戦闘業務からは現実的価値があった。理由もなく、ヤンキーは、「Po-2問題」
を真剣に検討したわけではない。アメリカ人がこう呼んだように「気違い中国人の目覚まし時計」は、敵に健全な精神を常に与えなかった外、顕著な損害も与えた。その後、夜間業務には、第56戦闘機航空連隊の2個大隊及び若干の中国航空部隊
が合流し、彼らは主としてLa-9/11で飛行した!
1950年11〜12月、中朝統合航空軍の編成が始まった。
中国人がそれを支配し、統合航空軍も、中国のリュ・チェン将軍が指揮した。1951年6月10日、朝鮮人民軍空軍には、飛行機136機と良く訓練されたパイロット60人が存在した。12月、中国の2個戦闘機師団がMiG-15で戦闘行動に着手した。後に、朝鮮人民軍航空師団がこれに合流した(1952年末までに、その数は3個になった。)。
しかしながら、朝鮮航空隊の活動は、最良を期待できなかった。敵航空隊との戦闘の主な重責は、北朝鮮の防空基盤がソビエト部隊だったため、第64戦闘機航空軍団の戦闘機軍と高射砲が負い、朝鮮人と中国人は、戦争の大部分において、支援的役割を演じた。彼らの防空部隊も存在したが、しかるべき状態になかった。
わずかに残された唯一の防空部隊は、1950年12月2日付の金日成の命令により創設された「飛行機狙撃猟兵」グループだった。この「偉大な創意」の構想は、各狙撃連隊に銃架式及び携帯式機関銃から近隣の丘の間に展張したロープに至るまでの手元の手段の助けの下で敵機と戦闘を開始する小隊が割り当てられることにまで縮小した。北朝鮮のプロパガンダの
主張によれば、いくつかのグループ(例えば、北朝鮮英雄ユ・ギホの班)は、このようにして、3〜5機の敵機を上手く撃墜した!これら情報を過大なものと考えたとしても、「狙撃猟兵」が前線で大きな現象となり、少なからず国連軍飛行士の肝を冷やした事実が残る。
1953年6月27日の休戦署名日、北朝鮮の航空隊は、まだ余り戦闘能力がなかったが、量的に既に戦前を上回った。各種専門家は、同期間の機数をMiG-15×200機以上を含めて、350〜400機と評価している。これら全ては、北朝鮮の戦前の飛行場が破壊され、戦争中に復旧されなかったため、中国領土に駐屯していた。1953年末までに、中国義勇軍は、北朝鮮領土から撤収し、38度線上の陣地は、朝鮮人民軍の管理下に移された。ソ連からの新しい軍事機材の広範囲な納入が付随した北朝鮮軍全兵科の著しい再編が始まった。
空軍のために、10ヶ所の航空基地が突貫で建設され、電波技術局、空中監視・通報・連絡哨所、通信線を備えた38度線に沿った統一防空システムが創設された。「前線」(北朝鮮では、今まで軍事分界線をこう称している。)と大都市は、高射砲により濃密にカバーされた。1953年、北朝鮮空軍のジェット機への完全移行も始まった。次の3年間、ソ連と中国から大量のMiG-15が得られた。更に戦争終結までに、最初のジェット爆撃機Il-28が導入され、その内10機は、1953年7月28日
の平壌上空での「戦勝パレード」に参加した。
軍航空隊では、大規模な組織変更も行われた。空軍の編成から、反航空司令部、海軍及び陸軍航空隊が分離された。
反航空司令部の従属下には、空中目標発見システム、高射砲兵及び戦闘航空隊が入った。海軍航空隊は、
大港湾をカバーする複数の戦闘機大隊と、海上目標の偵察及び攻撃を目的とする少数のIl-28を含んだ。陸軍航空隊は、1953年から北朝鮮国内の全ての民間航空輸送も行い、橋梁、自動車道及び鉄道が復旧されていなかったため、戦後初期、その規模は特に大きかった。旧式のPo-2及びLi-2の外、陸軍航空隊は、An-2、Il-12及びYak-12を受領した。未確認の情報によれば、特に1953〜54年、北朝鮮人は、
南への工作員の航空送達を開始した。この際、陸軍航空隊の飛行機は、パラシュート兵の投下だけではなく、韓国領土への秘密着陸も実行した。
全体を黒色に塗られた1機のAn-2が、そのような作戦時、韓国保安機関により鹵獲され、今まで軍事博物館に展示されている。それにも拘らず、韓国空軍も、北朝鮮へのスパイの送達に非常に活発に従事していた。アメリカ人と共同で実施されたその成功した作戦の1つは、「ミグ狩り」だった。1953年9月21日、10万ドルの報酬の約束に惹きつけられた北朝鮮空軍大尉金ソクホは、MiG-15bisを南のために奪取した。このことは、今まで撃墜された「ミグ」の破片しか所有していなかったアメリカ人が、当初沖縄で、後に米国で機体の全面試験を
行うことを可能にした。
一般に、地上、海上及び空中の休戦線侵犯、並びに相互の偶発的交戦は、50年代から数百件起こった。文献上で最も頻繁に言及されているのは、1955年2月2日
に日本海上空で起こったエピソードの1つである。当時、北朝鮮の8機のMiG-15が、米空軍のF-86 Sabre戦闘機の援護下で北朝鮮沿岸を写真撮影していたアメリカの偵察機RB-45 Tornadoの迎撃の試みに失敗した。空中戦の結果、2機の「ミグ」が撃墜され、アメリカ人に損害はなかった。1955年11月7日、38度線
付近で休戦線の公式巡回を行っていたポーランド人監視員を乗せた国連のAn-2が撃墜されたとき、もう1つのスキャンダラスな事件が起こった。韓国の防空部隊が誤って撃墜したと推測する根拠が存在する。
1956年、ソ連共産党第20回大会は、国際用語に「個人の文化」の概念を導入した。世界の共産主義運動において、スターリンの支持者と敵対者間に深い溝が生じた。
北朝鮮では、朝鮮労働党が「反党反革命分派と修正主義者の陰謀の犯罪化」に敵意を示し、党員の大規模な粛清を開始した。当時初めて、「主体」
(社会主義建設の意義において、分離された朝鮮において、独自の力にのみ頼って、「自分で自分を助ける」)の用語が言及された。北朝鮮では、
今、ソビエトだけではなく、中国指導部ですらも、思想面において一貫性が不十分だと考えられた。それにも拘らず、このことは、ソ連及び中国からの最新兵器による軍の装備の継続を妨げなかったと同時に、社会主義国で教育を受けた最も素養のある軍人及び技術専門家が弾圧に遭った。
軍の強化は、1956年、順調に進んだ。海軍が編成され、空軍の組織建設が完了し、軍の近代化が始まった。数十機のMiG-17F戦闘機、Mi-4及びMi-4PLが装備に入った。1958年、朝鮮人は、ソ連から戦闘迎撃機MiG-17PFを受領した。1958年3月6日、「前線」を侵犯した2機のアメリカの訓練機T-6Aが、高射砲により射撃され、後に「ミグ」により攻撃された。「テキサン」1機が撃墜され、その搭乗員は死亡した。北朝鮮人は、アメリカ人が「偵察飛行を実行した・・・」と表明した。
1959年、金日成は、「主体社会主義の勝利」について晴れがましく宣言し、共産主義への道に朝鮮人民を導こうと意図した。韓国では、このときまでに、現地「左翼」が北朝鮮工作員の支援の下、前李承晩政権を状況把握の完全な喪失にまで至らしめた。I960年、「民主主義イデオロギー」を退け、米国の完全承認の下で軍事クーデターを行い、韓国の将軍が事態を救い、国内の敵対組織を容赦なく脅して、その後の「経済的奇跡」のための条件を保障した。駐韓米軍は、戦術核兵器とその運搬手段、「サージェント」、「オネスト・ジョン」及び「ランス」、少し後に「パーシング」を受領した。韓国軍は、南に配置された第7歩兵師団と共に、演習において、大量破壊兵器の使用を
習得した。60年代初め、韓国人は、北朝鮮側から常に激しい非難の対象となったいわゆる「鉄筋コンクリートの壁」(通常の地雷原だけではなく、ある情報によれば、核弾頭によっても強化された
強化陣地線)の施設を38度線に沿って建設した。それにも拘らず、北朝鮮は、この騒動の中、はるかに強力かつ綿密に偽装された強化陣地線を休戦線に建設した。
1961年、今まで秘密解除されていない大量の追加秘密議定書を有するソ連と北朝鮮間の相互援助及び防衛協力に関する条約が署名された。これらに従い、北朝鮮空軍は、1961〜62年、超音速戦闘機MiG-19S及び高射ミサイル・システムS-25「ベールクト」を受領した。
朝鮮人民軍は、航空及び砲兵化学弾薬を受領し、兵員は、化学及び放射線汚染条件下での戦闘実施に関する訓練に着手した。1965年以降、北朝鮮航空隊の装備に、MiG-21F戦闘機と高射ミサイル複合体S-75「ドヴィナ」が現れた。
1962年12月、金日成は、朝鮮労働党中央委員会第5回総会において、「経済と国防建設の並行実施」に対する新方針を発表した。彼が提案した措置は、経済の完全軍事化、全国
土の要塞化、全人民の武装化(言い換えれば、全人民が軍事要員)、全軍の現代化を規定していた。この「新方針」は、現在に至るまで北朝鮮の全生活と政策を規定している。北朝鮮は、国民総生産の25%までを軍に費やしている。
60〜70年代は、北朝鮮空軍にとって、多数の国境紛争の時期となった。
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1963年5月17日、地上防空手段がアメリカのヘリOH-23を射撃し、その後、北朝鮮領内に不時着した。 |
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1967年1月19日、韓国の警備船「56」が北朝鮮艦艇により攻撃され、その後、MiG-21が撃沈した。 |
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1968年1月23日、北の飛行機とヘリが米海軍の支援船「プエブロ」を攻撃し、自軍艦艇をそれに誘導した。船は拿捕され、北朝鮮の海軍基地の1つに曳航された。 |
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1969年4月15日、防空ミサイル兵が米空軍のЕС-121型4発偵察機を撃墜した。 |
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1977年6月17日、MiG-21がアメリカのヘリСН-47 Chinookを撃墜した。 |
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1994年12月17日、北朝鮮の地上防空部隊により、アメリカのヘリOH-58Dが撃墜され、この際ヘリのパイロット1人が死亡し、2人目は捕虜となった。 |
全ての場合において、北朝鮮人は、攻撃された飛行機、ヘリ及び艦艇が、スパイ目的で北朝鮮領空及び領海に故意に侵入したと主張したが、韓国人とアメリカ人は、これを否定している。当時韓国機がソ連国境を再三侵犯していた(アルハンゲリスク近郊及びサハリン上空で撃墜された「ボーイング」を思い出していただきたい。)ことを考慮すれば、北朝鮮の立場は、多かれ少なかれもっともらしいものである。
一方、韓国人は、同期間、2隻の北朝鮮船舶を撃沈し
(北朝鮮は、「無防備なトロール船」に対する「野蛮行為」について非難した。)、並びに北朝鮮の飛行機及びヘリによる領空侵犯を再三指摘した。80年代、NATOとワルシャワ条約諸国間の大規模軍事紛争発生
、その援護の下、北朝鮮も韓国に勝利できるはずだとする平壌の期待は当たらなかった。反対に、20世紀末は、
かつての「ソ連の友好国」における共産主義体制の大崩壊の時代となった。それにも拘らず、
ソ連自体もなくなり、アルバニア及びルーマニアのような「共産主義の擁護者」は、「ビッグ・ブラザー」以前に倒壊した。極東では、中国とベトナムも、ゆっくりだが、正しくマルクスのイデオロギーから離脱している。何度も西側と交渉しているキューバと若干のアフリカ諸国を考慮しなければ、90年代初めまでに
事実上北朝鮮だけが共産主義唯一の砦となっている。事実上全ての同盟国の喪失と「自由世界」諸国からの圧力の強化にも拘らず、北朝鮮の支配層は、分離された国において、共産主義の最終的勝利への信念をますます確固たるものにしている。
彼らの確信を支持しているのは、朝鮮人民軍が今まで世界で最も強力な軍の1つであるという事情である。実際、北朝鮮の完全な閉鎖性は、国外の軍事アナリストに国内の一般情勢、特にその軍の技術装備についておおよその評価しか下させない。北朝鮮自体では、朝鮮人民軍について、少し、非常に一面的に書いている。北朝鮮人は、上辺と秘密性の領域において、ソビエトと中国の友人に優っていると言える。勿論、国家のプロパガンダは、朝鮮人民軍が
不敗で、その卓越した兵士と指揮官は「1対100」で戦う用意があると常に主張している。これには、「北朝鮮人は老朽化した武器と戦闘機材を有しているが、戦闘精神は格別に高く、これは良く教育され、鉄の規律に慣れた兵士」と考えているアメリカの専門家も部分的に同意している。それにも拘らず、「偉大なる司令官」金日成が全ての党会議において定期的に、「警戒心の喪失、戦闘精神の欠如及び部隊における平和的感情」に対する懲罰を自分の元帥達に行わせることを妨げなかった。朝鮮人民軍の戦闘力の基盤を構成するのは、
数万門の火砲と老朽化したソビエトのT-55及びT-62、中国製T-59戦車から80年代末に受領したより近代的なT-72M、BMP-2、BTR-70までの7千両の装甲車両
である。西側専門家の一部は、韓国人と駐韓米軍が保有する対戦車手段が、「北朝鮮の戦車無敵艦隊を世界最大の鉄屑の山に変える」ことができると必要以上に楽観的に考えている。
アメリカ人は、勇敢にも北朝鮮軍航空隊について、「北朝鮮空軍は、イラク空軍よりも悪い技術状態にある。機体は、その最初の飛行士が既にお爺さんになったくらい古い。今日のパイロットは、余り訓練されておらず、彼らの年間飛行時間は、7時間以下と算定される。彼らが荷馬車を離陸させたとしても、南方に飛び去り、カミカゼの伝統で最初に出会った地上目標に自機を向ける公算が大きい」と確信して書いている。
そのような主張を100%当てにはできないが、北朝鮮空軍に装備されているソビエト・中国製機が主として旧式機であり、現代の戦争の条件に適合するものは少なく、旧式な方法論と切迫した燃料不足の条件下で教育を受ける飛行要員は、事実上経験が少ないこと
は全く明らかである。しかし、その代わり、北朝鮮機は、地下格納庫に確実に掩蔽され、その滑走路は充実している。自家用軽自動車の完全な欠如と少数のトラックの下、北朝鮮では、戦争の場合疑いなく軍用飛行場として使用されるコンクリート舗装と鉄筋コンクリートのトンネルを有する大車線が建設された(例えば、平壌−元山
高速道路)。これに基づき、アメリカ諜報部が「世界で最も濃密な対ミサイル及び対航空機防衛システム」と考えている強力な防空システムを特に考慮すれば、第一撃で北朝鮮航空隊を「停止」させられないことを確信できる。
西側アナリストの意見によれば、北朝鮮の防空部隊には、軽高射機関砲から世界で最も強力な100mm高射砲に至るまでの9千門以上の高射砲システムの射撃陣地、並びに自走高射砲ZSU-57及びZSU-23-4「シルカ」
が展開している。その外、固定複合体S-25、S-75、S-125及び機動「クーブ」及び「ストレラ-10」から
「その操作手が恐怖という言葉を知らない」携帯発射機に至るまでの数千基の高射ミサイル発射装置が存在する。質的に、北朝鮮空軍は、決して錆びたブリキ缶の集まりではない。実際、90年代初めまで、MiG-17×150機以上及びMiG-19×100機(その中国版Shenyang F-4及びF-6を各々含む。)、並びにHarbin H-5爆撃機×50機(ソビエトのIl-28の中国版)及びSu-7BMK戦闘爆撃機×10機
が残されていた。しかし、既に80年代初めまでに、軍航空隊は、新段階の近代化に着手した。以前に保有した150機のMiG-21に加えて、ソ連からMiG-23P戦闘迎撃機及びMiG-23ML前線戦闘機×60機、中国からQ-5 Phanlan攻撃機×150機を受領した。20機のMi-4ヘリしか有していなかった陸軍航空隊は、Mi-2×10機及びMi-24×50機を受領した。1988年5〜6月、北朝鮮にMiG-29の最初の6機が導入され、年末までに、同機30機及びSu-25K×20機から成る全機引渡が完了した。80年代末、空軍の予期せぬ充足となったのは、第三国を経由して迂回方法で調達された20機のアメリカのヘリHughes 500であ
り、これらは、武装を有さず、連絡及び空中監視用に使用されている。
老朽化した航空機(MiG-15、MiG-17、MiG-19)は、同時期、「世界の帝国主義と闘う兄弟国」、先ず第1に、アルバニア、並びにギニア、ザイール、ソマリア、ウガンダ、エチオピアに引き渡された。1983年、イラクに30機のMiG-19戦闘機が引き渡され、イラン・イラク戦争中に使用された。偽目標としてイラクの飛行場に配置されたこれらの機体は、「砂漠の嵐」作戦時、多国籍軍航空隊の打撃を引き受けた。
北朝鮮に民間航空というものが存在しないことを指摘する必要がある。
遠隔地区への食料及び医薬品の配達、国内旅客便又は薬剤散布であれ、いかなる飛行も、空軍の識別章を帯びた飛行機及びヘリで遂行される。この「軍民」航空隊の基盤を構成するのは、現在に至るまで約200機のAn-2及びその中国版Y-5である。70年代初めまで、「兄弟国」への飛行は、Il-14×5機及びIl-18×4機で遂行され、後に
北朝鮮の航空隊は、An-24×12機(別の情報によれば、その一部はAn-32型に属する。)、Tu-154B×3機及び金日成が一連の公式国外訪問を行った「主席用」Il-62が充足された。ソ連崩壊後、北朝鮮の航空隊は、CISの「独立航空会社」から安価に購入された若干数の民間機により充足された。その中で最大のものとなったのは、数機のIl-76である。1995年初め、北朝鮮は、外国航空会社の旅客便のための領空開放に関する国際条約に署名した。これらと関連して、
国外フライトを行う北朝鮮の飛行機は、再設立された「朝鮮民航」の民間標識を得たが、軍人の搭乗員がそれを操縦し続けている。
飛行要員の教育のために、90年代初めまでに、100機以上のレシプロ機CJ-5及びCJ-6(Yak-18の中国版)、チェコスロバキア製ジェット機L-39×12機、並びに数十機の教育戦闘用MiG-21、MiG-23、MiG-29及びSu-25が存在した。より近代的な機種のためのパイロットの訓練が、年間飛行時間7時間の平均水準を著しく超えているのは全く当然のものと思われる。先ず第1に、これには、MiG-23及びMiG-29を装備したエリートの第50近衛及び第57戦闘機航空連隊の飛行士が属する。彼らは、平壌近郊に駐屯し、空中からの首都のカバーを実施している。多くの第三世界諸国で航空専門家を教育した教官も、少なからない経験を蓄積している。
北朝鮮に各種地対地ミサイルが存在し、その多くが自走式で発射されることを忘れるべきではない。正に北朝鮮の「スカッド」により、サダム・フセインは、ペルシャ湾での紛争時、米国とイスラエルを威嚇した。当時、発射が非常に小さい集中度で行われたにも拘らず、アメリカ人は、最新の対空ミサイル「パトリオット」でイラクが発射したミサイルの10%以下しか撃墜できなかった。
それ故、北朝鮮空軍は、今なお、アメリカ人が考慮せざるを得ないかなり巨大な戦力である。
1950〜1953年の北朝鮮空軍の典型的塗装。図は、1953年6月、第726戦闘機航空連隊、N.I.イワノフ少佐のMiG-15bisを例にした。
最終更新日:2003/05/22